ハムレットに寄せて                    

                      〜 世田谷パブリックシアター 2003年6月25日昼公演から 〜

冒頭から横道にそれてしまうのだが、実は今回の「Hamlet」によって私の中にあった30年来の疑問のひとつが解けた。
他人が聞けば他愛のないことなのだが、忘れていた30年前の疑問がこんなところでリンクするとは全く思っていなかっただけに、
その疑問解けた時には久しぶりに興奮してしまった。
私がまだ少年だったころ、機械いじりが好きで趣味でアマチュア無線をしていた。少しご年配の方ならご存知かも知れないが、
アマチュア無線は一般的に“ハム”と呼ばれている。当時のアマチュア無線を紹介した本には、「大根役者・素人役者を表す
”ハム”という言葉から、素人の無線家という意味で“ハム”とよばれるようになった」というようなことが書かれていた。
その時は「日本が”大根”で西洋は“ハム”なのかぁ・・食べ物ばかりなのは何でだろう?」などと思っていたのだが、そんなことは
いつの間にか遠い忘却の彼方へ飛んで行ってしまい思い出すこともなかった。
ところが先日、カミさんとハムレット談義をしていると「大根役者ほどハムレットをやりたがるという言葉があるのよ」と私に講釈を
のたもうた。その時は「ふ〜ん」と聞き流していたのだが、後から突然30年前の記憶が蘇ってきて、ん?え!?あっ!
ひょっとして・・大根役者を表す“ハム”=ハムレットのことだ!と気がついた。もっとも 「大根役者ほどハムレットをやりたがる」
という言葉は必ずしもその文字面通りの意味ではなかろう。恐らくそれほどまでに多くの舞台人がハムレットに憧れ、それを
目指してきたということではないのか。これまで幾度かハムレットを見ているにもかかわらず、今の今まで気付かなかった自分
にも呆れてしまったが、世のアマチュア無線家のほとんどが、自らを表す“ハム”と云う言葉が実はハムレットに由来している
とは恐らく気付いていないだろう。
アマチュア無線とハムレット、一見何の関係もないように思えるこの二つの事象は“こっそり”とつながっていたのだった。

前置きはさておき、待ちに待った「Hamlet」である。メディアから伝わる萬斎さんの意気込みも、我々ファンの期待も、
こと「Hamlet」に関しては特別なものがある。それは萬斎さんにとって、1990年のハムレット以来再演を望み続けての
今回の舞台であったし、また同時に、多くのファンにとっても前回の大切な舞台を見逃した穴を埋める大きなチャンスだった
からに他ならない。
6月の梅雨空の中、一旦は上がった雨を追いかけるように新幹線でSePTへ向かった。幕開けを待つ目にまず飛び込んで
きたのは2階建の建物程もある巨大な“木箱”だった。しかもそれはただ置かれているのではなく、まるで「タネも仕掛も
ありません♪」とでも言いたげにマジックショーよろしくグルグルと回り、我々にアピールしていたのだ。
この時点では、それがいったいどんな展開を見せるのかは全く見当がつかなかったのだが、第1幕が始まるとそれは高い城壁
となり、はるか天井近くでその幕を揚げた。そしてこの不似合いとも思えるほどのこの高さが予想を越えた効果を生み出す。
舞台前寄りの席でははるか見上げる程の高さで、決して見やすくはないのだが、この高さがもたらすリアリティーはあえて必要
だったと納得してしまった。この巨大な“木箱”は多様な変化のバリエーションを持ち、場面が変るごとに思いもよらぬ顔を見せて
くれる手品のような楽しさがあり、観る者の好奇心を十二分に満足させるオモチャ箱だった。
第二場に入ると箱の一面が開放され、赤い巨大な飾り棚にクローディアスをはじめとする登場人物が整然と陳列されていた。
しかもそれぞれの手の平には小さな手鏡が携えられ、鏡を透かして何かを見ているようで何ともユニーク。こうした演出は実に
妙を得ていて面白い。この鏡を見て連想したのは、第3幕第二場に出てくるハムレットの「・・芝居の目的とは、昔も今も、いわば
自然に向かって鏡を掲げること、つまり美徳には美徳の様相を、愚には愚のイメージを、時代と風潮にはその形や姿を示すことだ。
(略)」という台詞。彼ら自身が役者自身として鏡を掲げているようでもあり、また鏡が真実を映すものとして隠された罪を暴くものの
象徴のようにも感じられ、我々に向けられた暗示として大いに興味をそそられた。

また男性のみによるキャスティングもこの舞台に独特の雰囲気を醸し出していて、個性ある舞台づくりに大いに貢献している。
ただちょっと気になったのは中村芝のぶさんのオフィーリアは私の中のイメージとは少し異なっていたことだ。特に前半の部分は
女性としての“度”を超してしまい、表現が濃厚すぎてオフィーリアに合わない気がする。あのオフィーリアになら私も「尼寺へ行け!」
と言ってしまうかも知れない。(笑)後半のオフィーリアの狂気はかなり見ごたえがあっただけに、その後半を生かすためのギャップ
が欲しいところだ。同じく女役(ガートルード)の篠井さんは、女性の性(さが)と母性を違和感なく表現していたのが好印象だった。
萬斎さんについて言えば、やはり前半の独白部分に少し物足りないものを感じた。第四独白以降はそれなりにテイストが出ていたと
思うが、欲を言えばもっと“萬斎流の独白”が聞きたかった、と思うのは欲張りだろうか?
そして忘れてはいけないのがクレオン役ですっかりお馴染みになった鋼太郎氏だが、今回も「萬斎−鋼太郎ライン」は健在だった。
「オイディプス王」の時にも感じたことだが、この二人の組み合わせはすこぶるマッチングが良い。この二人の駆け引きは見ている
だけでとても面白いし、舞台にもリズムが生まれてくる。もしまた次があるのなら「萬斎−鋼太郎ライン」は是非存続してもらいたい。
もうひとつキャスティングで注目したいのは津嘉山さんの役どころだ。ハムレットの父、王の亡霊であり旅役者の座長(劇中の王)、
さらに墓掘りまでと、日本人離れした重厚感で演じられるその存在感は特筆すべきものだろう。ただ、墓掘りまでが何故津嘉山さん
だったのか?これが未だに気になって仕方ない。某紙の演劇コラムには「津嘉山が役を兼ねる旅劇団座長、墓掘りには軽みが
欲しい」とあった。これも何か違う気がする。あのノーブルな雰囲気を持つ座長、墓掘りだからこそ、そこに秘められた意味がある
のではないかと思う。
座長と墓掘りの背後に居たものは王の亡霊自身か!?それとも運命の神?もしかすると死神!なのかも知れない。いずれにしても
ハムレットとかかわるその姿が妙に謎めいていたのは確かだ。

今回の「Hamlet」から浮かび上がって来るのは“カオス”のイメージである。もしかすると、そうした印象を与えることが感想や評価
の分かれる要因のひとつになってるのかも知れない。が、演劇にはその時代々々を映す鏡としての側面があろう。長く続く経済不安、
終わることのない戦争、蔓延する犯罪など、見聞きするものからは未来が明るいとはにわかに信じられない現代。
その混沌として予測もつかない、運命に翻弄される人類の未来の姿がこの「Hamlet」の中に見えるような気がするのだ。
過去の出来事のようでもありまた同時に未来のことの様でもあり、人はいつまで同じ過ちを犯し続けるのか、という問いかけがこの
「Hamlet」の中に潜むカオス的世界観をイメージさせている気がした。

ある新聞に演劇評論家のO氏が言葉の問題に絡んで「もしそれほどまでに翻訳にまで(萬斎さんが)介入したいというのなら、
彼はどうして演出を買って出なかったのだろう。(中略)なにもわざわざ日本語のわからぬ演出家など呼んでくることはない。」という
意見を述べていた。しかし、今回のプロデュースについては、野村萬斎がジョナサン・ケントを求めたのではなく、今回の「Hamlet」
そのものがケント氏を必要としたと私は理解している。言い代えるならば、この劇そのものがシェイクスピア劇の本場であるイギリス
のコンテンポラリーな作品として通用する実力を必要としたということではなかろうか。
前回の「まちがいの狂言」がワイルドカードでの挑戦とるすならば、今回はシード権を得ての本戦出場だ。世界に打って出るには
世界を知る指揮者が必要。ワールドカップサッカー日本代表チームのフィリップ・トルシエ然り、アメリカズカップ・ニッポンチャレンジ
のピーター・ギルモアも然りである。今回のジョナサン・ケントの起用は明らかに勝ち負けを意識してのこと、もちろんそうなれば本場
の観客の見方はさらに厳しくなるのは必至だが、いつまでも東洋から来た珍しい役者という見方に甘んじるのであれば、日本における
シェイクスピア劇の進化などは望めないのではなかろうか。
結果はどうであれ、果敢な挑戦こそが重要なのである。ガンバレ!「Hamlet」日本代表チーム!


                                                      < 2003年夏  文・マスター>

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